Category: コラム

My memories ・・・思い出の1枚・・・《中本健太郎》


チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。今回で当企画は最終回です。
最後を飾るのは、別府大分毎日マラソンでの激走が記憶に新しい、中本選手に語ってもらいました!

「大の野球好き!」これだけは自信をもって公言できます。私は小学3年生から、少年野球チームに入って白球を追う日々を過ごしました
テレビでプロ野球や高校野球の中継を見ては憧れました。
今回のコラムの題材を何にするかあれこれ悩みましたが、野球少年だった私を陸上競技へ導いてくれた原点とも言える写真を選びました。





1999925日~27日 山口県高校新人陸上
於:山口県維新百年記念公園陸上競技場
 


 写真左手のゼッケン13番の青いユニフォームを着て走っているのが私です(我ながら今と変わりないような気もしますが)
高校2年生で出場した山口県高校新人陸上 5000mに出場した時の写真です。
この時の順位やタイムが良かったから、思い出の1枚として選んだわけではありません。
平凡な成績であり、
平凡な選手。それが私の高校生活3年間を表現するにもっとも相応しいと思います。
野球少年だった私は、高校の進学にあたって野球を続けたいという想いがあり、進路先をどうするか決めかね悩んでいました。
そんな折、山口県立西市高校で一緒に陸上をやらないか?っという誘いを受けました。


野球に明け暮れた中学校の部活動で冬場に、運動各部から選手が選抜されて、そのメンバーの1人として駅伝を走った程度で、全くのシロウトといえる私としては陸上での進学など考える余地も無くまた、野球に対する想いが勝り一旦はお断りしました。
しかし、陸上部顧問の富家先生が何度も、学校や実家に来ていただいて熱心に誘っていただいたこともあり「高校3年間だけ陸上を頑張ってみよう」、そんな軽い気持ちで進学を決断しました。


そして、入学し陸上部の練習に参加するようになると、そんな甘い考えを一新する毎日でした。


練習の大部分が持久走や、インターバルトレーニングといった走力の強化よりも、とにかく基礎的な身体作りを行う補強トレーニング(筋トレ)が中心で、その量が半端ではありませんでした。
早朝練習で1時間、午後の本練習も鉄棒での懸垂逆上がりなど、多種多様な補強トレーニングを毎日やっていました。
故障したときは、この補強トレーニングの量が2倍3倍と多くなることもあって、本当に辛かったです。
また、普段から礼節を重んじる先生のご指導は、挨拶にはじまり生活面での規律に対し特に厳しかったです。試合の結果が悪かったことよりも、挨拶が出来ないことのほうがはるかに、怒られていたような

この何気ない写真を見るたびに、高校生活3年間の思い出が甦ります。
この3年間は私の陸上競技生活の基礎であり、人生の宝物です。
高校時代の5000m自己ベストが14分54秒でした。
決して強豪チームとは言えない陸上部ではありましたが、レースで勝つことよりも、もっともっと大切な事を富家先生や、辛い練習を一緒に頑張った仲間たちに出会い学ぶことができました。



今年で私も31歳になります。チームの仲間やライバルも年々、陸上から離れていき寂しさを感じています。

しかし、平凡な選手だった私が、多くの方々に出会い、支えられて競技生活を続けられることに日々感謝し、これからもたくさんの人々に感動を与えられるような走りをしていきたいと思います。



そんな私の大切な思い出の1枚です。                           
                                                     中本健太郎




My memories・・・思い出の一枚・・・≪平山竜成≫

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第10回目の今回は、今季の駅伝・ロードシーズンに向けてひときわ闘志を燃やす平山選手に語ってもらいました。



2004年6月6日  佐賀県高校総体陸上男子5000m決勝
於:佐賀県総合陸上競技場


写真1番左の坊主頭の選手が私です。
当初は、陸上以外の思い出について語ろうとも考えていましたが思い出の写真というと、やはり陸上の物しかみあたらず、高校時代最も印象に残ってる写真を選びました。
 私は、初めて郷里の佐賀県伊万里市を離れ鳥栖工業高校に進学しました。伊万里から鳥栖は地理的に県の端と端にあり、通学できる範囲ではなかったので先生の家で下宿させていただきながら高校3年間を過ごしました。
 下宿生活では当然ながら洗濯、炊事、掃除など自分でしなければいけない決まりで、今まで親に何もかもやってもらっていたので、当たり前のことがとてもきつく感じました。
 また、共同生活になリ周りに気を使う場面も多く、正直あまりいい思い出がないなという感じがします。(笑)
 しかし、振り返って思えばこの生活環境で過ごした日々があって親への感謝の気持ちや、礼儀など
学ぶ事ができ、高校卒業後にいろんな場面で活かすことができている思います。
苦い思い出も今ではいい経験だったと自分に言い聞かせています!

 この写真は、そんな高校生活が始まって間もない1年生の時に、チャンスをいただいて出場した5000mの試合で(それも県大会で)まさかの優勝を勝ちとった時のゴール写真です。見ての通りギリギリですが
 ラスト1周で離されてしまったのですが、諦めずにラスト50mで追いついて胸一つ分で勝った瞬間です。まさか勝てるとは思ってなかったので、この時の興奮や達成感はどう表現していいのか・・・
とにかく、嬉しかった事が忘れられません。
 今でもこの写真を見ると、あの時の何ともいえない感覚がよみがえります。もう1度この感動と興奮を味わいたいという思いが、陸上を続けるモチベーションになっていると思います。
 社会人になって、自分の思い描いたような走りができず苦しいことが多いですが、そんな時にこの写真を見て自らを奮い立たせています。純粋に陸上競技が好きだということを思い出させてくれる私の大切な1枚です。
                                              平山 竜成



My memories・・・思い出の一枚・・・≪飛松誠≫

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第9回目の今回は、入部10年目のシーズンに突入しベテランの風格漂う走りでファンを魅了する、飛松選手に語ってもらいました。



1994年6月25日 全国中学校選抜体育大会(相撲競技)
於:北海道夕張市総合体育館  ※左が飛松選手


小さい頃から体を動かすといいますか、外で遊びまわってるのが大好きな少年で、幼稚園の頃から将来の夢はマラソン選手と決めていました。
そんな夢を抱きつつも、小学校時代には、駅伝の他に野球・相撲と数々のスポーツをやってきました。 
自分の育った佐賀県鳥栖市の神辺町(こうのえまち)は非常にスポーツが盛んで、小学生は半ば強制的に夏は相撲、冬は駅伝といった感じでやらされてました  
 ※野球は自主参加?型だったので、小学4年生の頃からの遅めのデビューでした
その甲斐あってか自分らの時代は、野球はそれほど強くなかった、いや、むしろ弱かったんですが相撲と駅伝は鳥栖市でも強豪の町でした。
そんなスポーツ遍歴があっても、中学生になれば迷わず陸上部に入りました。
しかし、中学2年生の夏にひょんなことから借り出されるかたちで、相撲部の県大会に出場しました。
そもそも相撲部は2人しかおらず、団体戦は3人制で部員が1人足りずその結果、小学生の時に相撲をしていたという事で自分に白羽の矢が立ち、夏場の一時期に相撲部員となりました。
 (よく、野球部の足が速い子が冬場の駅伝で借り出されて出場した等の話は聞きますが・・・
小学生時代は、パワーでは勝てなくとも、業師として巧みな技術でそこそこ勝てていたのですが、中学生になると、さすがに体格の差がもろに出てきて他の選手にはまったく歯が立たない状況でした。
しかし、チームメイトの二人が驚異的に強かったので、決勝まで全て2勝1敗で順調に勝ち進み、ここで勝てば全国大会出場が決まるという中堅戦で自分の一番がきました。
そこでなんと信じられない奇跡が!!体が倍はあるような相手に超マグレの内掛けが決まり、よもやの初勝利をおさめました
この勝利で結果的に優勝を決めたこともあり、新聞にデカデカと載ってしまいました。
 (いいところだけもって行った感じです
まあ、全国大会では百戦錬磨の猛者たちの前に、全く良いとところなく話のネタにもならない感じで終わってしまったのですが、貴重な体験をさせてもらいました。
この相撲の経験が現在に至る足・腰を鍛えて、陸上でここまで自分を成長させてくれたと思っています。何事も陸上に繋がっていると信じてこれからも頑張っていきたいと思います。

                                                        飛松 誠



My memories・・・思い出の一枚・・・≪山園翔≫

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第8回目の今回は、山園選手に入社3年目のシーズンに向けた誓いを込めて語ってもらいました。

2010年2月某日  於:宮崎県立小林高校グランド 

後ろの一番右が僕です。
思い出の写真と言われてアルバムを探していたら、高校時代の写真が出てきたので紹介します。
現在は髪の毛は伸ばしていますが、高校3年間は坊主でした。
僕は小学校から陸上をやってきました。本格的に始めたのは中学校からで、体力をつけるために始めました。そんなに強い選手ではありませんでしたが、地元の熊本県球磨郡という地域の中ではいつも1、2番手ぐらいでした。
高校への進学は陸上で色々なところから誘いがきて、特にどこの学校に行きたいということもなく、同じ中学校の先輩がいるということもあって、宮崎県の小林高等学校へ進学しました。
最初は地元を離れるし、友達もいないなかで本当にやっていけるのだろうかと不安でした。
厳しい寮生活、毎日の洗濯など本当に大変でした。入学した当時は毎日がきつかったです。
ただ、朝練があるため5時少し過ぎには起きるんですが、中学校の時に新聞配達をやっていたので
早く起きるということは苦にはなりませんでした。
この時、僕らの間では暗黙のルールで朝練に遅れた人は頭を五厘に丸めるというルールがありました。 ※ちなみに僕もなったことがあります (^^ゞ
また、駅伝部監督の横山先生には僕はいつも叱られてばかりで問題児だったのかもしれません。
今思うと本当に申し訳ないし、たくさんのご指導に感謝しています。
本当に高校3年間つらいことがたくさんあったのですが、これを乗り越えられたのも3年間励まし合い、協力してきた仲間のおかげです。
それぞれ卒業した後、関東の大学や、専門学校へと進んだりした仲間とは今でも連絡をとっています。繋がりって本当に大事なんだなと思いました。
この写真は僕にとっての大切な1枚です。
                                                山園 翔



My memories・・・思い出の一枚・・・≪黒木文太≫

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第7回目の今回は、現在「東京マラソン」に向けて順調にトレーニングを行っている黒木選手
に語ってもらいました。



1994年3月6日  於:JR博多駅付近 (前列最右が黒木選手)
僕の実家は安川電機の所在地から目と鼻の先ほどの距離にあり、また父親も安川電機の関連会社で勤めていたこともあって、昔から「安川」の名前に親しみを持って育ちました。
実家のすぐ近くを通過する「九州実業団毎日駅伝」等が行われるときはもちろん、沿道で応援もしました。今になって思えば、まさか自分が安川電機に入社するとは…(不思議な縁を感じます)
その当時を振り返ると、小さかった頃は遊びと習い事で忙しい毎日でした。ソフトボール、水泳、空手、バイオリン、陸上等とにかく何でもやってました。嫌々やってたのが正直ですが、今となっては色々なことにチャレンジできて良かったと思っていますし、感謝しています。
その中でもっとも思い出に残っている出来事として、ソフトボールクラブでの名物行事がありました。
小学3年生当時、僕は「熊西シャークス」というクラブに所属していました。そこで年1回の名物行事として長く受け継がれている「鍛錬遠足」がありました。
このときは北九州市八幡西区~JR博多駅までの約57kmという距離を完歩しました。それは当時の僕にとって全く未知の世界でした。57kmは今でも完走した事がない未知の領域ですね。。笑
  ※この前年も北九州市八幡西区~北九州市門司区和布刈(約27km)も完歩していました
出発は正午。旧国道3号を威勢良くスタートし13回の小休憩をとりながら目的地に向かいました。途中歩きながら寝るという神業で電柱に正面衝突し、唇を切るという軽い事故?ケガもありながら、何とか無事に翌午前4時頃博多駅に到着しました。睡魔の力って凄いんですよホントに!!(^^♪
早朝、小学校の周りを走ったり「火の用心」を呼びかける夜回りも行って準備はしていましたが、想像以上のキツさでした。この写真を見るだけで、今でも鮮明に当時のことを思い出します。
また、このときのことは地元紙の「西日本新聞」にも載りました。
そして思い出の続きで、この名物行事はじめ大変お世話になった「熊西シャークス」の当時の監督が、昨年の「朝日駅伝」で中継所まで応援に来てくれました。
僕が任された最終区は地元を走るコースだったこともあり、どこかで風の噂でも聞いて駆けつけて来てくれたのだと思います。お会いするのはかれこれ15、6年ぶりで、僕自身もですが監督もすごく感動されてました。
この年の開催で終了する「朝日駅伝」で、チーム初優勝がかかった緊迫した中継所での再会でしたのでほとんど話もできませんでしたが、お会いできたことで元気をもらって元気に走る姿を見てもらいたいと強く想ってその時は走り出しました。
今の自分があるのはたくさんの方に出逢い支えられ、成長できたからだと思います。これからもその気持ちを忘れず、お世話になった方々へ恩返しできるような走りがしたいと思っています。
そんな僕にとっての思い出の1枚です。
                                                     黒木 文太



My memories・・・思い出の一枚・・・《北島寿典》

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第6回目の今回は、これまで故障が多くなかなか実力を発揮する機会が少なかったですが、今季は高いレベルで好調を維持している北島選手に語ってもらいました。

1992年8月17日  於:新潟県佐渡島の浜辺
 

この写真は僕が幼いころに、家族で佐渡島に旅行へ行ったときのものです。


おぼろげな記憶をたどると、海のない群馬県で育った僕にとってさぞ楽しい経験だった事でしょう。
今となっては、佐渡の風光明媚な風景やそれまでに食べた事がなかったであろう新鮮な魚の味など、いつの間にか僕の記憶から薄れてしまいましたが、忘れてしまいたいこの時のある出来事だけは、今もはっきりと頭に焼き付いています。
幼かった僕は、初めての船旅に少々飽きていました。それを見かねた父が僕に自動販売機でコーラを買ってくるように使いを頼みました。


仕事を頼まれたことで芽生えた使命感が、僕にそれまで感じたことがないような勇気と興奮をもたらしました。
すぐさまお金を手にし、コーラを求めて見知らぬフェリー船内の探索を開始しました。車も積み込む大きなフェリーの船内は、それまで持て余していた暇を一気に解消させるまさに、僕にとっての大冒険フィールドでした。


 


まず、最初に見つけた自動販売機では残念ながら、コーラが売られていません。


次に目指したのは、乗船の際に見かけた後部デッキ近くの自動販売機。


しかし、これもコーラはありませんでした。
あっちこっち夢中になって自動販売機を探していると、「まもなく佐渡島に到着いたします。」というアナウンスが聞こえてきて、次第に船内やデッキに人が少なくなってきました。



「マズいっ!」


はっと我に返った僕は、自動販売機を探すことに夢中になり自分がどこにいるのか全くわからなくなっていました。


「このまま船の中に取り残されて、どこか遠いところに連れていかれる…」
間違いなく「迷子」になったということを理解して感じたあの時の不安と恐怖は、忘れたくても忘れられない苦い思い出として記憶に残っています。


結局最後は親に見つけ出してもらい事なきを得たのですが、案の定帰りのフェリーでは親の近くを絶対に離れようとしなかったのは言うまでもありません。
 


オチのついでに、迷子になり涙を浮かべて立ち尽くす僕に、やさしく声をかけてくれた若いお姉さんのおかげで折れかけた僕の心が救われました。
叶うものならばもう一度お会いしてあのときのお礼がしたいです。



                              北島 寿典 
 



My memories ・・・思い出の1枚・・・《立石慎士》

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第5回目の今回は、チームの中堅どころを担う入社9年目を迎えた立石選手に語ってもらいました。



この企画の原稿作成にあたって、アルバムを開いて昔の写真を見直しましたが、どうもしっくりくるものが無くて悩みました(^_^;)
この写真は折れた右鎖骨を、キルシュナー鋼線と言うステンレス製の金属を手術で固定した後のレントゲン写真です。
今回はあえてこの写真をチョイスしました。思い出と言うか、苦い経験と言うか・・・
今年3月に開催された「びわ湖毎日マラソン」出場に向けて練習をしていた早朝練習の最中に、自分の不注意で転倒してしまい右鎖骨を骨折してしまいました(;_:) 
転倒した瞬間に異常を感じ、すぐに病院で診察してもらったところ案の定骨折でした。そのまま手術を行って入院となりました。
約2ヶ月の入院期間中には様々な思いが頭をよぎりましたが、復帰に向けてリハビリを必死に取り組みました。
腕が動かせないことでいろいろな不自由に苦しみましたが、復帰までは家族の支えで乗り越えれました。
 
特に妻は私の手術の5日後に次女を出産し、自身も産後の身でありながら私のリハビリや通院などの世話と同時に子供達の育児など、大変な苦労をかけてしまいました。
今、私が復帰する事ができここまで走れるようになったのも、献身的な妻の支えがあったからこそだと「感謝」しています。
また、転倒して駆け込んだ際は早朝時でありながら病院を開けて、すぐに診察してくださった先生はじめトレーナー方々、職場の同僚、陸上部メンバー、皆さんの支えとご理解、また応援してくださったことに「感謝」しています。
ありがとうございます。
感謝の思いをこめてこれからも走って行きますので、今後の私の走りに期待してください!最後に、
 朝方や夜、暗い道を走られる方は足元に十分注意して走ってください!!
                              立石 慎士  



My memories ・・・思い出の1枚・・・《久保田大貴》



チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第4回目の今回は、今季トラック10000mで念願の28分台をマークした
久保田選手に語ってもらいました。

1999年12月4日 
益城郡城南町(現 熊本市)
豊田小学校校内持久走大会
 ※先頭が久保田選手
 


 


僕の育った地元、下益城郡城南町は(現在は市町村合併により熊本市)辺り一面に田んぼや、地元の名産品でもある「レンコン」を栽培する畑が広がるのどかな農村地帯です。


地元を離れて、5年半となりますが良くも悪くも、地元の風景は今も変わってません(^.^)


 


そんな田舎暮らしの日々で、もっとも辛かったのが自宅から小学校まで通う片道3キロの通学路でした。


今でこそ、3キロくらいはなんともないですが、もともと熊本市内で生まれ小学1年生の途中まで市内育ちの市内っ子の当時の僕には、本当に辛い通学の日々でした。


 


どんなに天気が悪くても、学校が休みにならない限りは山道を30分~40分かけて徒歩で通い、忘れ物に気付いて家へ戻るときなどは悲惨でした


そんな過酷な登下校の毎日が足腰の強化に繋がり、自慢のふくらはぎができあがりました。


  


 ※実は陸上部公式HPのトップページのイメージ画は自分の足です!(^^)!


 


 


また、地域がら熊本はマラソンや長距離走が盛んで学校行事でも駅伝や持久走大会などよく行われて、冬になるとそれらに向けた練習が多くなりました。


 


もともと走る事は嫌いではなかったので、体育の時間や休み時間に行われる練習が楽しみで、学校へ行くモチベーションとなっていたのも事実です。


 


この写真は6年生の時に走った持久走大会のものです。


小学校6年間で最後の年にもっとも良い3位でゴールする事ができ、もの凄く嬉しかったのを覚えています。


 


この地元で育った日々が、今もこうして陸上を続けられている自分の原点だと思います。


僕に陸上という道を作ってくれた環境。思い出の一枚というか感謝の一枚です。


 


 


                             久保田 大貴                                                              



My memories・・・ 思い出の一枚・・・《種子野輝夫》

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第3回目の今回は、前回の平野選手と同期入社で入部4年目を迎えた種子野選手に語ってもらいました。度重なるケガや故障で10ヶ月戦列を離れていましたがようやく回復し、現在はレース復帰へ向けて合宿等で順調にトレーニングを行っています。


2007年8月3日 平成19年度全国高等学校総合体育大会(2007青春・佐賀総体)
陸上男子1500m決勝
会場:佐賀県総合運動公園陸上競技場

この写真は高校3年生の時に出場した全国高校総体陸上(インターハイ)1500m決勝レースの写真です。
4番目でひときわカラフルなユニホームで走っているのが私です。


安川電機陸上部の拠点である北九州市で育った私は、中学生の時から陸上を始めました。3年生の時に出場した市内中学駅伝大会で区間賞を獲得したことから、高校駅伝の強豪校などに誘われましたが、自分のペースで練習しながら陸上を続けて行くことに決め、地元の若松商業高校に進学しました。
 
 


※実は坊主頭にしなくてよかったことも進学先を決めた一因です


 


そんなマイペースで取り組んだ高校での陸上競技生活で、地道に3年間練習に励んでいましたが、3年生の時に念願のインターハイに1500mで出場することができました。


初めての全国大会で絶対に活躍したいという気持ちを持って臨んだ予選で、思いのほか好い走りができて、余裕を持って決勝進出を決めることができました。


予選を走った感触から決勝では外国人選手には敵わなくても、日本人選手トップでの3位を目標にしました。



決勝当日は台風接近に伴って雨と強風で、スタート時刻も大幅に遅れてしまうなどコンディションが物凄く悪くなりました。
しかし、
集中が途切れないように自分にとって理想のレース展開を何度もイメージしながらスタートしました。



レースはラスト1周まで集団が崩れず、外国人選手が一気にスパートして自分を含め何人かの選手が追いかけましたが、追いつくことができずそのままなだれ込むようにゴールしました。


結果は5位入賞で目標の日本人選手トップでの3位には届かず悔しさは残りました。
しかし、それよりも走りきった達成感があり、まだまだ自分は活躍できると思いました。
そしてすぐに、もっと強くなって上を目指そうという気持ちに切り替わっていました。


 


実業団チームに入って苦しいことや、なかなか結果を残せず悔しいことが多いですが、あきらめずに日々の練習に取り組めるのは、あの大きな舞台でレースがしたいという思いが支えになっています。


 


そんな私にとって思い出の一枚です。


 


                                                   種子野 輝夫



My memories ・・・思い出の1枚・・・《平野護》

チームメンバーそれぞれにもっとも思い出に残る1枚の写真について語ってもらう企画です。
第2回目の今回は、今季「復活」をテーマに自らにリベンジを誓う入部4年目の平野選手に語ってもらいました。

1998年2月1日開催 第5回労福協CUPフットサル大会
会場:島根県浜田市金城町「ふれあいジム・かなぎ」
※実際の紙面に掲載された写真を関係者より譲りいただきました。



写真中央が私です。
現在の私からは想像がつかないと思いますが、小学生時にサッカーに打ち込んでいました。
Jリーグの発足に伴って、日本中でサッカー人気が高まっていたころ地元クラブチームの美川FCでサッカーを始めました。
当時は、サッカー日本代表が最終予選で劇的な勝利を収め、初のワールドカップ出場を果たした時代背景もあって、頻繁に選手カード付のお菓子を買っては集め、サッカーに憧れ夢を見る少年時代を過ごしました。
(その時テレビで観戦したW杯の強豪国代表選手のプレーに衝撃を受け、今でも海外サッカーを観るのは好きです。)
そんな小学6年生の当時、地元で開催されたフットサル大会に出場した際の様子が、たまたま地元紙に掲載され、紙面には私がプレーする写真が載っていました。
どこまで反響があったかはわかりませんが、自分の取り組みが初めて記事になったその当時の出来事がとても嬉しかった事を今でも鮮明に覚えています。
中学校ではサッカー部が無かったため陸上競技の道に進みましたが、新聞や雑誌等で自分の成果を取り上げてもらえることに喜びや快感を強く覚えたのは、この時からかもしれません。
自分の取り組みについて多くの人に知って頂ける場があることは嬉しく思います。
いろんな人の応援や支えのおかげで今も競技を続けられています。
競技を続けるなかで苦痛を感じることもありますが、この時感じた気持ちの高揚が忘れられず、この写真を見ては原点を思い返し、自らを奮い立たせるようにしています。
これからも、いろいろなメディアを通して多くの方々に自分の成果を知って頂けることをモチベーションにして、応援して下さる方々に喜んでもらえるように頑張ります!!



                                                   
                                                      平野 護